東北の地震が起きた10年前、既にロンドンの今の事務所で慌ただしい朝を迎えていた。チームのみんなに心配される中「今日は休み扱いにしてください。」と上司に伝わりもしないお辞儀をした。都内で働いていた時の事務所に連絡を取りながら、色んなアイディアを送った。「明日死ぬかもしれない人のためにできること。」ということを教わった事務所であった。帰路の地図を多くの友人に送るなどしていた。全く声が出ない女川出身の友人を励ました。「電気つけてないんじゃない?もう暗いでしょ。」と家族の安否を諦めていた。「待ってろ。」と言い残し安否確認表をみせた時の友人の「あったよ!名前あったよ。。。」と泣きながら喜んでいた声を今でも昨日のことのように覚えている。日本語のニュースと英語のニュースを同時に聞き、突き進めば突き進むほど自分は無力であると感じた。ちゃんと建築家として何かを残さねばと思ったのが結論であった。
その後
都内にスタジアムの提案をすることになった。まだ東北の復興が完了しておらず、東京でオリンピックができるだろうかという誘致もできていない頃だった。募集要項を警戒すると共に応募できる事務所を割り出し、色んな案を描き出した。それに勝るものは何か。50年に一度のチャンスに残すべきものは何か。と必然的なデザインに寄せていった。不思議と勝利を収め、無事に誘致も完了した。なのに不可解な感覚は消えなかった。
日本からの設計チームを組み2年が過ぎている頃だった。色んな検討が行われ2歳にもなるその娘は好き嫌いをはっきりと伝えるようになる時期だった。それがある日、突然死産を迎えた。ニュースとして内閣総理大臣によって。暗闇を抜けるような日々が何年も続いた。チームは僕らの積み重ねた設計図と共にバラバラになった。まるで外国人設計者に問題があるという内容。予算に問題があるように脚色されるものであった。所内でも日本人への圧力はあり、やり返すことも、人事に持っていくこともしなかったが日本人でいることが邪魔と感じることは少なくなかった。ドリームチームと言われていたことが夢物語のように皆辞めていった。現実と夢と悪夢の区別がつかなくなっていった。それに加わるように数ヶ月後、ある決断の翌日に所長は心臓発作で亡くなった。
最近
「海外から見て日本の良さはどう言ったところに感じますか?」と聞かれることが妙に多い。季節に合わせて桜を国民全体で美しむところと答えている。ロンドンにも桜は咲いている。親善関係の象徴として贈られるものもあればそうでないものも。ただその本数はたまに出てくる2、3本に過ぎない。川の土手を固めるためにと100本、1000本という日本に多く見かける単位や時間を感じさせる幹の太さとは異なる。そのタイミングを狙うように出される桜にまつわる流行りの新曲や料亭での旬の食材を用いた手解き。「散りゆく様も優美」でそれもまた憧れる。こう言った死を含む美しさに全国民が声に出さずとも桜に合わせてそれぞれがお返事をしていく静かな広がりに日本の美意識を感じる。
が、大地震の多くは正月から春にかけて起き
「桜が散るまでは」と用心が毎年募る。
そして、優美だと正気でいられだろうか。
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